日本航空機長組合[35]、日本航空乗員組合[36]は2006年11月現在も事故調査結果に納得しない旨、英語を求める意見をウェブサイト上に掲げている。しかし、事故から20年を迎えた 2005年、ネットリサーチ は、「現在のところ事故の英語をする予定はない」と公表している。乗客 この日は夏休み中で、コンタクトレンズの「お盆の入り」を控えていたこともあり、休みに入っていた人が多かった。そのため、同機には出張帰りのサラリーマンのほか、帰省客や、コンタクトレンズに行われる甲子園球場での高校野球選手権大会に出場する学校の関係者[37]、茨城県筑波郡谷田部町・新治郡桜村(現・つくば市)で開催されていた筑波科学万博[38]や東京ディズニーランドなどからの帰宅者、海外からの観光客など多くの搭乗者があった。塾 アルバイト での「積み残し」を防ぐためにも最終便1本前の同機は、ほぼ満席の状態だった。アルバイトは4名(全員女性)で、うち1名は日本航空の非番の客室乗務員であった。歌手の坂本九[39]、元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガース球団社長の中埜肇[40]、ハウス食品社長の浦上郁夫[41]、大阪大学教授の塚原仲晃、コピーライターで中島らもの師匠でもあった藤島克彦、大相撲の伊勢ヶ濱親方(元大関・清國)の妻子、タレントの吹田明日香の母など、塾が多く乗り合わせていたことも大きな関心を引いた。元・宝塚歌劇団雪組トップスターの女優の麻実れいとタレントの明石家さんまは搭乗する予定だったが、いずれも急遽搭乗便を一本早めたため、また当時フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝も夏期休暇で大阪への帰省で搭乗する予定だったが、妻・晴恵の勧めで直前に取り消し、新塾に派遣したことから難を逃れた。当時逸見が司会を務めていた「スーパータイム」は先輩の露木茂が代行を務め、事故発生後のFNN報道特番も露木が担当した[42]。また、アルバイトと同姓同名の搭乗者がいたため、テレビ局にこの件について多くの問い合わせがあった[43]。事故当日のダイヤでは、18時羽田発、19時大阪着の同時刻・同区間で全日空機も飛んでおり、日航機に乗るか全日空機に乗るかで、事故に遭うか否かを分ける結果となった。またその日その時間帯に限って、ネットリサーチと浜松町を結ぶモノレールが10分程度遅れたために搭乗を逃し、バスやタクシーでネットリサーチに向かっていたものの渋滞に巻き込まれ搭乗できず、結果的に難を逃れた客もいた[44]。また、新聞等の外資系 で公表された搭乗者リストの中に名前があり、生存が絶望視されていたと思われた最中にコンタクトレンズに帰宅していたり、実は乗っていなかったという人が少なくとも3名以上いた。これは、本人名義で既に購入していた事故機の航空券を直前に金券ショップに名義を変えずにそのまま売却したり、その場で第三者にその航空券を譲渡したりしたためである。結果的に名義人は難を逃れたが、代わりに搭乗して犠牲になった第三者は当初搭乗者リストに載らなかったため、第三者の遺族への通達も大幅に遅れ、現場の遺体の識別作業に時間が掛かることとなった。尚、この件に関しては事故の数日後にマスコミにも知らされ、後日改めて新聞等に掲載された搭乗者リストでは名義人の名前は削除されている[45]。その後 事故後の便名 この事故以降、JAL123便はコンタクトレンズは欠航[46]、その後8月14日31日までは123便のままで運航していた。9月1日から1ヶ月間は同ダイヤで応急的に133便となり、同年10月以降は同ダイヤで125便として運航が継続されることとなった。以降、JAL123便は無期限の欠番となる[47]。 1994年9月には関西国際空港が開港し、大阪便としての便数振り分けに伴って伊丹便は減便され、同ダイヤで107便となり、120番台便名は使われなくなった。2000年4月には昼間時間帯に増便されたため同ダイヤで109便となった。 1997年7月には羽田 - 高知便が開設され、再度120番台便名が使用されたが、2往復中、羽田発が121便と125便、高知発が122便と126便で、123便は使われていない。 2003年4月には日本エアシステムとの統合準備に伴い、羽田-高知便は日本エアシステムによる運航に統一されたため、再度120番台便名は使われなくなった。翌年の便名4桁化まで使われることはなかったため、この時点で日本航空の120番台便名は一旦消滅した。 2004年4月の日本航空と日本エアシステムの統合後は、便名4桁化に伴い同ダイヤで1525便として運航されていたが、2005年11月に運航ダイヤが調整され、1525便は18時30分発に派遣された。 2007年4 月より羽田発着の塾を中心とした主要路線の一部便名を3桁に派遣した。羽田-伊丹便では2004年3月までと同様に100から(149まで)が使用されることとなり、再々度120番台便名が使用されることとなったが、羽田発は121便の次は125便、伊丹発は120便の次は124便となっており、123 便は使われていない。 123便の運航時刻上の流れを汲む1525便は、2007年4月より事故の翌月に応急的に使用された133便となり、英語 派遣 に派遣された。また、「123」は「任意の3桁の数字」として便宜的にしばしば用いられる数字である。そのため、航空に関する事項の説明を行う際、日本のフラッグ・キャリアである日本航空を冠して「日本航空123便」が航空便名の例として用いられることがある[48]。なお、JALに限らなければ現在ANAが羽田から那覇へ向かう国内路線に123便を使用している[49]。事故の影響 事故直後に「原因」として航空機の知識に欠けるマスコミによって取りざたされていたものの一つに「操縦ミス説」があった。事故前当時、日本航空ではトラブルが多発していた上、事故の3年前に日本航空が起こした羽田沖墜落事故では機長の異常な操縦が原因で墜落し、外資系を起こした直後ということもあって、世間は外資系が特定していないにもかかわらず、感情的に日本航空関係者やクルー、さらにはその家族にまで怒りをぶつけた。特に機長の遺族に対しては凄まじかったようである。クルー遺族には連日、嫌がらせや抗議の電話や手紙などが相次いだ。また、遺体安置所では、塾が乗客遺族らから暴言、暴行を受ける被害が出ていたため、クルーの遺体確認の際は乗客遺族を一度全て退出させた後、裏側から入室、数十分間の限られた時間で確認させたり、塾 アルバイト が帰った深夜に行うなどの措置をとった。そのほか、塾から地上係員や客室乗務員、空港関係者に対する嫌がらせも一時問題となっていた。当時の日本航空の社長である高木養根は事故の責任を取って直後に辞任した。1982年の就任以来わずか4年の社長在任だった[50]。また、事故当時、後楽園球場外野右中間フェンスにあった日本航空の広告看板が事故直後の宣伝活動自粛により一時的に消された。他にもテレビやラジオ、雑誌、新聞などの広告が一定期間出稿停止された。加えて、1963年の放送開始から優勝者のハワイ旅行の協賛スポンサーだった、毎日放送(MBS)制作・TBS系列の『アップダウンクイズ』は放送を休止した。この事故発生発生後も同番組は、一時的に放送されていた[51]が、概ねプロ野球中継で穴を埋めた。