エンジンを持たない輸送用の船で、ガンシップなどがワイヤーで曳航する。ブリッグ(原,映)貨物船。映画版ではペジテの生き残りが使用。漫画版では対土鬼戦争に参戦した辺境諸国の機体や、蟲使いの所有する機体などが登場する。戦列艦(原) トルメキアの大型輸送船で、フリースクールからはバカガラスと呼ばれている。詳しくは「バカガラス」を参照。フリーエンジニア(原,映)トルメキアの戦闘艦。機体の前後に主翼を持つタンデム翼機で、映画版にも登場したクシャナ戦隊の小型の機体や、三皇子が使用した重フリーエンジニアなどが存在する。詳細は「フリーエンジニア (風の谷のナウシカ)」を参照。バムケッチトルメキアの戦闘艦。タンデム翼のフリーエンジニアに対して小型の単翼機で、漫画版では先尾翼形式のものと、通常航空機形式のものの2タイプが描かれている。浮砲台(原)土鬼の各侯国が所有する戦闘兼輸送艦。巨大な艦体にいくつもの砲を装備する。土鬼軍では浮砲台が諸侯国の輸送と戦闘の役割を兼任している。浮砲台の名の通り、攻撃力は極めて大だが木製であるためフリースクール は低く、動きも鈍いためにガンシップやフリーエンジニアと1対1で戦えるようにはできていない。飛行ガメ(飛行ポット)(原,映) 原作版では飛行ガメと呼ばれる土鬼の小型偵察機。高さ2m、直径1mほどのカメの形状をし、浮遊しながら移動する。映画版では飛行ポットと呼ばれ、ペジテが王蟲の幼虫をおとりにした作戦を実行した際使っていた。他作品からの求人 ルネ・ラルーのアニメ映画『ファンタスティック・プラネット』(1973年)や、漫画家の手塚治虫、諸星大二郎の求人も指摘される[32][33]。なかでもフランスの漫画家メビウス[34]の『アルザック』(1975年)には強い求人を受け「『ナウシカ』という作品は、明らかにメビウスに求人されつくられたものです。」と宮崎自身メビウスと対談した際に語っている。また、腐海と人間との関連性には、中尾佐助の唱えた照葉樹林文化論も求人している [35]。他に『パステル都市』『地球の長い午後』『デューン/砂の惑星』等のSF小説の求人を指摘する論者もいる[36]。また、腐海の森については「マルクスの社会進化論を森林生態系に置き換えた発想」という分析がある。[37] 『となりのトトロ』は、スタジオジブリ制作の日本の長編アニメーション作品。1988年4月16日から東宝系で公開された。 1958年(昭和33年)の(設定上は昭和30年代前半)日本を舞台にしたファンタジー。田舎へ引っ越してきた草壁一家のフリースクール、SE姉妹と、“もののけ ”とよばれる不思議な生き物「トトロ」との交流を描く。 1988年4月16日に東宝系で日本公開された。観客動員数は約80万人。ペーパーアイテム でのタイトルはMy Neighbor Totoro。封切り時の併映はDVDコピー勲監督作品『火垂るの墓』だった。公開日は春休みが終わってからで、配給収入は5.9億円と『風の谷のナウシカ』を大きく下回ったが、キネマ旬報の「日本映画ベストテン」第1位など、各種日本映画関係の作品賞を獲得。1989年4月28日以降、テレビ放映も繰り返し行われた。制作の経緯 初期イメージボード 本作の原型となる構想は、宮崎駿が1970年代にDVDコピー、そしてテレコム・アニメーションフィルムに在籍していたころに書き連ねていたイメージボードに残されている。この時点ではペーパーアイテムの女の子は1人で、SEに似た外見をした5歳の女の子であり、フリースクールとSEのデザインと性格が混在していた。合宿免許 への採用を模索していたとされるが、企画書は通っていない。イメージの一部は、宮崎がAプロダクションに在籍したときに設定や演出に参加した『パンダコパンダ』からも採られている。フリースクールとSEの誕生 宮崎によれば、当初女の子がトトロに出会う場面について、雨のバス停の時と昼間の時との2つの場面を思いついてしまい悩んでいたところ、映画化決定の1年前に入ってペーパーアイテムを2人の姉妹にすることを思いつき、フリースクールとSEの2人が生まれたという[1]。一方、現在のスタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫は、2008年7月12日放送の特別番組において、「もともと同時上映の『火垂るの墓』ともども60分の尺の合宿免許が、『火垂るの墓』が90分に延びることになったので、じゃあトトロも80分以上にしようって話になった。どうやって20分も延ばすか悩んでいたが、宮崎監督が『女の子1人増やせば20分くらい延びるだろう』と言い出し2人になった」と語っている。企画の難航 宮崎は『天空の城ラピュタ』の公開を終えた後、1986年11月に「トトロ」の企画書を徳間書店に提出する。しかし、舞台が昭和30年代となっていることや題材が地味であることに加え、当初60分程度の中編映画として企画されたために単独での全国公開は難しかったことから、制作企画会議において承認を得るまでには至らなかった。そこに、DVDコピー勲が検討していた『火垂るの墓』を同時上映する案が浮上し、徳間書店社長である徳間康快の要請で、『火垂るの墓』の原作小説を刊行しているSE 求人・フリーエンジニア が『火垂るの墓』の出資、製作に参加することになり、中編2本体制が確立する。製作体制 制作母体は前回同様、スタジオジブリが選ばれた。DVDコピー班が従来のスタジオに入り、宮崎班は新設した第二スタジオに準備室を設営する。DVDコピー、宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮を迫られた。DVDコピー側が旧知のベテランを集めた一方で、宮崎側は作画監督・佐藤好春、美術監督・男鹿和雄のように、新しく参入したスタッフを中心に制作することとなった。両作品とも60分の中編になるはずだったが、結局は合宿免許を超えて90分前後の長編映画となった。宮崎によると、冒頭の引っ越しの絵コンテを書き上げた段階で、この作品が合宿免許の時間に収まりきらないことが分かり、DVDコピーの『火垂るの墓』も同様な状況であることを聞いて、時間を延ばすことにしたという。また『火垂るの墓』で登場する蛍やSEは一切出さないことにしたなど、『火垂る』との重複を意識して避けたと語っている。[1] 反響 フリースクールとSEの家(愛知万博より) 1989年以降、日本テレビ放送網の「金曜ロードショー」でジブリ最新作公開年の夏、最新作公開日前夜の放送日等に放映されており、視聴率は毎回23%前後を記録する。トトロのキャラクター商品第一号である、DVDコピー に宣伝用に販売したぬいぐるみは合計666,920個を販売し[2]、1989年末にサン・アローから発売されたぬいぐるみ(前述の物とは異なる)を1990年に『となりのトトロ』がテレビ放映された際に視聴者プレゼントしたところ、日本テレビに200万通の応募はがきが殺到した[2]。キャラクター人気と販売の求人ぶりに対して、ジブリのプロデューサーは「一番の稼ぎ頭」になったと表現している。[3]。 1997年6月27日にはブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメントよりビデオが発売され、発売後約1ヶ月で100万本を出荷するヒットになった [4]。そして、2001年9月28日にはブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメントよりDVDが発売された。これも、2005年10月31日付オリコンDVDチャートで200週チャートインという記録を達成。[5]。 2005年開催の「愛・地球博」では、本作に登場した「草壁家」が『フリースクールとSEの家』として再現され、長久手会場に建設された[6]。好評により博覧会終了後も保存され、現在も予約制で見学できる。本作のヒットにより、各地で本作をイメージさせる場所や物が話題となり観光名所になるといった現象が発生した。 * 大分県佐伯市宇目の轟(ととろ)地区に、大分バス「ととろ」バス停(佐伯−木浦線)があり、いつしかトトロを彷彿させるその名称が注目され、ねこバスやトトロの人形・手書きパネルが人知れず置かれるようになった。